TwitterなどのSNSをみていると、「発達障害の当事者を称する人」を多く見かけます。
Twitterは特に即時性が重視されるせいか、多動症(ADHD)と相性がよさそうなため、余計目立つのかもしれませんが、発達障害という言葉が日常語になったあたりから、「自分もそうかも…」と考える人が増えたのは間違いないのでしょう。
発達障害が増えたとか減ったとかいう議論は、診断と社会による受け入れなどの変数に左右されますが、それ以前の前提として日本人には発達障害らしい特性が共有されているように感じます。
今稿では、日本人の発達障害性ひいては日本人らしさ(良さ)について考え、次稿では、特性を踏まえたライフハックについて考えます。
大人の発達障害は増えている?
以前、子どもの発達障害は増えている、という記事を書いているので、「子どもの臨床域の発達障害は増えている」のは間違いないと思いますが、大人についてもそうなのかは少し疑問があります。
(臨床域というのは「社会的に不適応状態にあるため診断をうける程度の」という意味です)
記事の中で触れましたが、私が子どもの時分は、小学校で特殊学級の在籍児童が少なかったにもかかわらず、40人の通常クラスで学級崩壊はおきていませんでした。
発達障害は、少なくとも小児期(乳幼児期)から見られる特性をもって診断します。なので、子どもの頃は適応が悪くなかった人が、大人になっていきなり発達障害になるのは少し違和感があるのです。
では、大人の発達障害には誤診が多いのでしょうか?
こどもの頃は臨床域ではない発達障害だったのでしょうか?
「子ども時代は何とか適応していても、ずっと生きづらさを感じていた」、「大人になって分かっただけで、子どもの頃から同じだった」という当事者感覚に嘘はないと思うのです。
また、確かに発達障害の診断件数は近年増え続けていますし、私が子どもの頃(昭和最後くらい)は重い知的障害を伴う自閉症くらいしか診断されていなかったという事情もあります。
なので、見逃されていた人がそれなりに居た、と考えることは可能ですが、彼らの多くが“適応がよかった”ことを考慮すると、その時点での診断はやや過剰であるとも言えます。
そもそも発達障害の診断はあいまい:生きづらい社会では増える
“適応”はその人が社会生活を満足に送れているか/いないか、の状況で判断するのが一般的です。そして、精神疾患の診断は特にこの“社会適応”が考慮されます。
一般に、精神的な体験そのものよりも、それによって社会生活の制約がある場合を重視して、診断されるという事です。(乳幼児期~学童思春期には少し違いがあります)
その意味では「病院に行くと診断される」というのは真実です。
受診してきた時点で、何か社会生活上の困難が生じていると判断されるからです。
なので、“大人の発達障害が増えてきた”というのは、生きづらさを感じ、社会生活を滞りなく送ることが難しい人が増えた、とも言えます。
日本人の内面が数年で大きく変わるわけではないので、社会の側に変化があったと考えるのが妥当です。ここ数十年で社会は、生きる大人に(子供にも)辛い社会になってきているという事でしょう。
日本人の遺伝傾向
日本人は全員“自閉的”
そもそも日本人には自閉傾向があると、私には思えます。それはおそらく、日本的村社会に適応した結果です。
日本史で習ういわゆる施政者階層と違い、大多数の一般市民は村の構成員でした。名のある家系の人でも、2代3代前までの先祖全員が特権階級だった人は多くないと思います。
つまり、遺伝的な意味では、私たちの先祖はほぼ“村の民”であった、のです。
殆どの村では“農耕”という年間スケジュールが決まっている営みを、正確に行うことが求められてきました。
島国のため、言葉や文化の違う人たちと日常的に接する必要はなく、文化背景が同じ人同士の交渉しか必要ありませんでした。お互いにどんな主張をしたいのかがわかることも多かったと思いますし、はっきり主張し雰囲気を悪くするより、忖度し表面的には和やかな交渉が好まれたかも知れません。
土居健郎『甘えの構造』に記載の通り、空気を読み読まれ、察して忖度するコミュニケーションは、日本独特です。
多くの外国では、コミュニケーションとは言葉や表情でわかりやすく表現し、相手に自分の意思を伝え、相手の意思を理解することです。土井先生は、察してもらう事を期待する日本人のコミュニケーション様式は「甘えである」といいます。
発達障害の文脈から言うと、はっきりものを言わず察してもらうことを期待するコミュニケーション様式は「自閉的(コミュニケーションの質的・量的障害)」と言えます。
それで意思疎通が成り立つのは、同じ文化背景を共有する者同士だからであって、厳密に言えば「察してもらう」のはコミュニケーションの用途をなしていないと思います。
また、自閉症の疾病分類基準には、コミュニケーションの面だけでなく、興味の偏りや融通の利かなさなど、実に日本人らしい項目が並びます。
日本人であれば、その項目がひとつも当てはまらないという人はいないでしょう。
自閉特性こそが“日本人らしさ/日本人の良さ”
現代の“社畜”にも通じますが、日本式村社会でのぞまれる人材とは、決められたことを文句言わずに毎日繰り返せる人、時間や作業が正確な人、空気を読んでうまく根回しや忖度ができ物事を荒立てない人、序列や順番を守れる人…です。
かつてこのような人が好まれ、子孫を残しやすかったという進化的な圧があったと想像できます。
そしてこのタイプの人は、現代日本社会でも信頼されやすい人格です。学校にいたら優等生です。
日本人の真面目さ、勤勉さ、正確さ、上のいう事を聞き、災害でも暴動など起こさず他人を思いやるところなど、日本人の長所は自閉特性と親和性が高いということです。
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近年自閉症は「スペクトラム障害」という概念が導入され、自閉特性は「ある/なし」ではなく「グラデーション的に存在する」とされるようになりました。
つまり、健常人と自閉症の間に「明確な境界線は存在しない」という事です。
だからこそ、診断の要件に重要なのは、「特性がある(診断基準に当てはまった)」ではなく「社会不適応があるかないか」なのです。
トリックスターとしての多動症
発達外来で観察している中では、自閉症よりも多動症の方が遺伝傾向は強い印象があります。
日本人はみな自閉特性があるとすれば遺伝率は100%なのですが、臨床域の自閉症とすると親子はそこまで似ていないケースが目立つのに対し、多動症の方は明らかに“親が子どもだった頃とそっくり”と思える親子が多いのです。
診断について詳しくは書きませんが、私は多動症の根源的な性質は、“好奇心の強さ”と“思い切りの良さ”だと考えています。落ち着きのなさや衝動性は、そこから発達の時間を経て副次的に現れる症状です。
多動症的な特性の遺伝傾向をもつ日本人は、多数派ではないため親子伝達が目立つと考えています。
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想像するに、昔の大多数の自閉症が運営する村で、多動症は「粗暴で規律を守らない人」として平時には疎ましがられたかもしれません。今の小学校で、多動傾向のある子が悪目立ちするのは示唆的です。
しかし、好奇心の強い、思い切りのよい人は、「有事に必要とされる人材」であったと考えられます。有事においてリーダーシップを発揮し、テクノロジーのイノベーションをもたらしたのは多動症の人だったと思われます。
自閉傾向は現状維持(伝統)を重んじます。平時にはそれがいいのですが、有事や変革期には多動症の先導を必要とする、そのような住み分けがあったと思います。
島国で近隣との諍いも多くはなく、農耕の時間軸が何より優先された社会で、トリックスターはそれほど必要ありません。
しかし、近隣との戦闘が多い、移動しながら生活する、腕力や略奪が評価されるような社会では、多動人材が多い集団が有利と思われます。
日本では文部科学省の調査で、多動症の有病率は約5~7%とされますが、大陸では、多動人材の比率が多そうな国や地域はたくさんあります。
日本国内でも、例えば農耕中心と漁業中心などの地域では、地域差があるかもしれない、と考えると興味深いです。
日本人の遺伝傾向から考える現代の生きづらさ
このような日本式村社会での役割を踏まえることで、昨今の日本社会の生きづらさが見えてきます。
生きづらさを感じる人が増えれば、発達障害の診断を受ける人も、当事者だと感じる人も増える道理です。
次稿、現代の生きづらさと、それを乗り越えやすくする方法について考えます。
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