発達障害特性を変化させる~親にできること

親にできることはたくさんあります

今日の記事は成人前のこどものご両親 (保護者、主に養育している大人という意味で使います。以下も同様) 向けに書いてみます。

はじめに、一番大事なことを書きますが、完璧にやろうとしないでください
「完璧主義」はご自身や家族を苦しめます。「0か100」「白か黒」の思考回路も完璧主義の一種です、このように考えている自分に気づいたら、一歩立ち止まってください。完璧ではなく、「少し今までよりましかも」くらいを目標に、たまに失敗することがあっても「またやってみよう」と思う、そのくらいのゆるさで十分です。

では、本題。
病院や発達センターにおまかせしても、適応の訓練はしてもらえますが、特性を変化させること(改善といってもいいかも知れませんが…悪いことでもないかもしれないのでこの言い方をします)については、ほとんど教えてもらえないだろうことは、以前に書きました。
また、「発達障害は遺伝性なので一生治らない」というデマが信じられていることも、書きました。

しかし、働きかければ働きかけるだけ、脳も身体も変化します。

発達障害特性が目立つように育ってきたのなら、今までの育て方を見直してみればいいのです。 「治らない」などと言って足を引っ張る人もたくさんいると思いますが、諦めないでほしいです。
適応の訓練はそれはそれで大事なので、療育や学校の適応教室で教わるとして、家庭では発達そのものを促すために、親にしかできないこともたくさんあるので、それを頑張ってみてほしいと思います。

なぜ、親に”しか”なのでしょう?

「どこかに子供を集めてトレーニングしてください」と思う方もあるかもしれんせんが、それでは効果がでにくいのです。
理由は、「こどもを取り巻く生活習慣を変えてほしいから」と、「特にコミュニケーションや社会性を学ぶには、そのこどもにとって重要な立ち位置にいる大人の影響が何より強いから」です。
こどもにとって重要な立ち位置にいる大人とは、自分を育ててくれている親に他なりません。教師や医師などの支援者に比べて、親の影響力は絶大なのです。また、核家族化や近所づきあいの変化により、他の大人がこどもとのコミュニケーションにおいて親の手助けができなくなったことも、親の影響力を強める結果になっています。

このことで、「親のせいで発達障害になった」とは考えないでください。
まさにそのように親(特に母親)が責められた20世紀後半の反省から、今の時代には「親のせいではありません、遺伝です。(なので治りません)」という言説が強調されることになっているのです。

親のせいで発達障害になるのではありませんが、こどもの生活習慣に介入できるのは親だけです。しかも、親がこどもの生活習慣に介入できる期間にはリミットがあります。
「責められてる~」「落ち込みました~」とか言ってる暇はないのです。
責められてるように感じるなどのご自身の問題は自分の問題として解決を図りつつ(簡単にはボディートークをお薦めします)、こどもの問題へはすぐさまアクションをおこしてほしいと思います。

では、どんなことが大切でしょう?

1:栄養
身体と同様に脳も、食事から摂った栄養分を材料に動いています。こどもの場合はさらに成長という要素も加わります。大人よりも栄養不足の影響を受けやすいと言えます。お菓子を食べるお腹(消化力)の余裕はないと思いましょう。

2:会話・コミュニケーション
核家族においては、保育園・幼稚園に入るまでは、親以外にこどもと日常的に会話ができる大人はほとんどいません。ことばの遅れを指摘されるこどもが増えるのも無理ないと思います。短い時間でもいいので、こどもとしっかり向き合って会話する習慣をつけてほしいです。

3:電子メディアの使い方
脳画像検査によると、初めの言葉(ネイティブ言語)を覚えるときのこどもの脳は、人の肉声にしか反応しないことが観察されています。録音した音には反応しないということは、デジタルかアナログの音質の違いなのか、人とのやりとりという体験と、一方的にこどもの反応とは関係なく流れてくる音声との違いによるのか、その両方なのかよくわかりませんが、いずれにしろ脳が反応しない音声を聞かせても無駄が多いと思います。
デジタル信号は視覚機能の発達にも影響があると言われています。それは、注意力や表情を読むことの能力などに関わってきそうです。

4:身体を動かした遊び
乳児健診では身体の運動発達が診察されているのは知られていると思いますが、つまりは乳児の身体の動きは脳の状態の指標にもなるということです。筋肉の発達は神経の発達で、神経の発達は脳の発達とつながっています。特に乳幼児期は、座学の勉強をさせるより、身体を動かして好き勝手に遊ぶことの方が大切です。

5:ほめ方と叱り方
叱らずにほめる子育ては是か非か…。ネット上でもいろいろな意見がヒットします。
私の考えでは、叱るもほめるも正しいのですが、多くの親ごさん方は叱り方もほめ方もちょっとずれているようです。少し修正すればだいぶよくなると思います。

6:生活時間、親子の境界線
”こどもの権利”は大事なのですが、大人と同じだけの権利をもった存在ではありません。何でもこどもの言うことを聞いて好きにさせるのは、やさしさではないと思います。これは、発達障害よりも親子関係により関わってくる問題かもしれませんが、問題行動が事例化してくるこども達には、親子の境界線、大人と子供の境界線があいまいなケースをよく見ます。

7:親自身の課題
こどもは(人はかもしれませんが)安心できる環境でしか発達することはできません。
虐待はもちろんですが、親自身が自分にかかりきりだったり、不安に押しつぶされたりしている時(不安は伝染します)、こどもの発達は遅れてしまいます。親が元気であってこそ(特にメンタルが)こどもが発達するので、自分自身のケアを後回しにしないでほしいと思います。

思いつくままあげてみましたが、全部を完璧にする必要はありません。
親世代の生活習慣にも関係する話なので、習慣にできるよう少しずづ取り入れてもらえればと思います。

具体的な内容は項を改めて書いていきたいと思います。

発達障害のこと⑦

扱いの問題の最後になります。

用語のところにも少し書きましたが、発達障害は“障害”といえども障害者福祉政策の恩恵をあまり受けることができません。

発達障害者支援法という法律が2007年に制定されましたが、不十分なため、発達障害の人が福祉支援を受けようとすれば、知的障害か精神障害の制度を利用するしかないのです。

それで、“精神障害者保健福祉手帳”や“療育手帳”の取得が必要になっています。

そもそも用語問題のところで見てきましたが、医療界でさえも発達障害の定義や予後がはっきりしていないので、それをもとに政策決定できないのは仕方ないかもしれません。

いずれ、症例がもっと集まって来て予後の予測も立てられるようになってきたら、法律が改正して、発達障害福祉が前進することを祈り待つほかありません。
今は、代用の手帳と福祉制度の中で最善をめざす時だということなのでしょう。

精神障害者保健福祉手帳は、統合失調症などの精神病圏の疾患、脳卒中の後遺症など精神疾患のため生活が困難になった人に交付される手帳です。身体障害の手帳と違うのは、長く続く可能性はあっても、一生続く障害ではないものも含んでいます。うつ病などで一時期就労できないなどの状態の人にも交付されます。更新期間は5年なので、病状がよくなれば更新せずという人もいます。

なので、発達障害がベースにある人でも、2次障害により就労できないなどの困難があれば取得することは理にかないます。前項にも書きましたが、問題は2次障害の診断がおろそかなまま、発達障害らしいからと手帳の交付を求める職場がある、というところです。本人に取得の意思が強ければまだいいのですが(それでも2次障害の病名で取る方がいいでしょう)、本人にその意思がないのに、職場に“障害者になること”を強要されるなら、人権問題だと思います。

私が成人精神科に携わっていた10年くらい前は、発達障害単独では精神障害者保健福祉手帳は取れない、という運用がされていましたが、最近では、それで手帳を発行する自治体が出てきているようです。

そして、小児の領域まで、それが広がってきているらしいので驚きます。それが、もう一つの問題です。

小児期の障害手帳の役割としては、身体の手帳では医療費の扱いが変わること、等級によっては手当が支給されること、特別支援学校に入学できることなどがあります。

手当は、身体の手帳でも療育手帳でも等級が重くないと支給されない自治体が多いですし、その他のさまざまなメリットも等級が重い(身体手帳で1,2級、療育手帳でA以上)でないとあまりありません。

なので、特別支援学校入学を考えた時にはじめて手帳の取得をすすめるケースが以前は多かったのですが、最近は、診断をうけたらすぐ「手帳ほしいです」という患者さん(の保護者)が増えています。

先にも書きましたが、小児の発達は個人差があり、幼児期に発達障害様の状態でも成長とともに問題なくなっていく子が多くいます。あわてて障害者のラベリングをする必要があるのかは、ちょっと疑問です。

その上、IQがある程度以上だと発達障害合併であっても療育手帳は取ることができませんが、そのような患者さん(の保護者)の間で「その場合は精神手帳がとれる」と噂になっているのか、それを薦める自治体があるのか、幼児でも精神障害者保健福祉手帳を申請したいと希望されるケースがあります。

精神障害者保健福祉手帳は、精神障害の症状の重さのほか、自活できるかどうか、を丁寧に判定する内容の診断をします。当然、幼児のケースでは、ひとりで買い物に行き、料理を作り、金銭管理ができる、などの項目がすべて不可になります。ほぼすべての日常生活動作も一人ではできない、と診断することになるので、本来の診断書の目的と違うことになってきます。精神の手帳は自活できる年齢の人が対象なのは自明なのですが、そのように明文化されていないため、幼児でもとりたいと思う人が出てしまうのかもしれません。

最後に、なぜ障害手帳を取りたいと思うのか(本当に必要なケースには医療の側から薦められます)を考察してみます。

障害手帳のメリットとしては、博物館などの公共施設の割引、高速道路の割引(身体手帳のみ)などがありますが、今は手帳を見せるとお得になるというものが他にも増えているのかもしれません。

ファンクラブでもチケットが取りにくいアイドルグループなどのコンサートに障害者枠チケットが存在するそうですが、公式には車いす席という扱いのようです。が、ある患者さんは、療育手帳でも申し込みができて普通に申し込むより倍率が低いと、話していました。

私はその方面に明るくないので真偽のほどはわかりませんが、もし、本当にそうだとすれば、本人(か家族の誰か)がコンサートに行きたいがために障害者の認定を受けたい、というニーズがあることになります。

目的はそれだけじゃない、という反論もあるかもしれませんが、あまり手帳を使って派手にやらかすと、本当に手帳の制度が必要で持っている人たちがバッシングを受けることにならないか危惧されます。

節度をもったご利用を、と提案して項をしめたいと思います。

発達障害のこと⑥

成人期発達障害の過剰診断について、別の角度の問題があります。
労務管理に関することです。

私は仕事では小児しか関わっていませんが、プライベートでは労務・人事関係の仕事をしている人やそのお仲間と会う機会があります。
10年くらい前は「発達障害って何よ?」と聞かれたりすることが多かったのですが、最近は「そんなの知ってる」体でめっきり聞かれなくなりました。

かわりに聞かれるのが「診断はどうすればつくのか?(どの医者にかかればいいか?)」「それで障害手帳がとれるのか?」などという話です。

つまり、会社を休んだ社員がいて診断書を持ってきたので、負荷の軽い業務にかえたのだけど…次々こういう社員が出て困っていた。障害者雇用で”精神障害手帳”を持っている人を雇ったら、休みがちな社員とほとんど同じだった。休みがちな社員にも、障害手帳とってもらって、障害者雇用に切りかえたらWINWIN、みたいな話があるのだそうです。

大企業にとって障害者雇用は義務だし、実際雇用すると手当が支給されるし、もともといた社員でその枠を埋めれば楽など、企業としてはプラスが大きいという事情があるようです。
なので、休職の診断書を提出した社員には障害手帳をとりにいくようにすすめる企業もあるのだとか。

これはちょっと、人権的にざわざわする話です。

障害があるかどうかとか、手帳をもっているかどうかとかは、プライベートなことで、雇い先にあれこれ指示されるべき事柄ではありません。手帳をとった後で、社員から報告があれば、それに合わせて勤務形態を考える、という順番であるべきではないでしょうか。

前にも書いていますが、障害手帳はしばらくの間ずっと障害者として生きることが前提にされている制度です。

発達障害の特性は(本人のやる気があれば)十分変わっていけるし、二次障害であれば治癒の可能性もあります。なのに、その時点で”障害者”として一生を生きるように、職場から指示されるって…
それで簡単に(手帳用の)診断書を発行してしまう医師もおかしいのかもしれませんが、当事者の方も、会社に言われるがままに手続きを進めるのではなく、本当に障害手帳とっていいのかよく考え、納得がいかないなら断る勇気をもってほしいと思います。

発達障害のこと⑤

思春期以降の扱いの問題を見ていきます。

思春期~青年期の年代が小児期と大きく違うのは、脳機能が大きく変化する時期を過ぎていることと、親の影響力が相対的にどんどん小さくなっていくことです。
これは、言葉を変えると、治りにくくなる上、治したければ本人のやる気が必要になる、ということです。とはいえ、成人期に比べて、まだ親の影響はありますし、脳の発達も続いてはいるので、諦める必要はありません。

成人期になると、これは本人の問題になります。
親、兄弟、配偶者…さまざまな立場の人が働きかけても、成人した他人を変えるのは困難です。その人と一緒にいて辛いのであれば、自分が楽になる方法を考えた方が建設的かも知れません。

ただし、本人にやる気があれば、”脳の可塑性”という変化する力は老年期でも発揮できることがわかっているので、変化することは十分可能です。
私は子育て支援を専門にしているので、保護者向けの情報が多いかもしれませんが、セルフケアについても知っていることは出していきたいと思っていますので、参考にしてみてください。

改善云々の話ではなく、青年期以降の本当の問題は別です。


前項でも書きましたが、過剰診断がされているため、発達障害といわれる成人の方がここ数年とても増えました。
一般的に成人精神科の診療では、”発達障害”という病態は治療の対象になりません。発達障害であっても社会人として困らず幸せに暮らしていれば病院にかかる必要はないでしょう、というのが建前です。
なので精神科にかかるということは、何らかの”精神疾患”があるからとみなす事が本筋だと思うのですが、現実には精神障害の診断がつかなかったり、ついても発達障害だから治らないと、言われるケースがあると聞きます。

学校に行けない、会社に行けない、対人トラブルが多い、こんな自分がいやだ、などなど主訴はさまざまかもしれませんが、そこにはうつ病圏や神経症圏などの病態が生じていると考えられます。これは、発達障害という本人の特性の影響を強く受けて生じた病態ということで、二次障害だと思います。

今は、成人のADHDも条件付きですが投薬の対象になったため、そのような人は別ですが、それ以外の発達障害の成人の方が受診したならば、きちんと二次障害の診断をして、診療をしたらいいのにと思います。

しかし、現実には「発達障害です」という診断だけされて、治療はできないからと放置されているケースが多いようです。
発達障害の特性そのものも、前述のとおり変化を促すことは可能ですが、今の医療資源的には積極的に介入できないのは理解できますが、二次障害があって受診に至っている人まで発達障害がベースにあると見なされると、治療の対象にならないのはおかしいように感じます。

これは、医療の側の問題だけではなく、社会の側にも問題があるようにです。

私たちの暮らす社会は、とても生きづらく、日本人全員が「きちんとしていなければいけない」という強迫観念にとらわれてでもいるようです。(ちなみに”強迫観念”は症状≑疾患です)
なので、少しでも”きちんとしていない”ように思われる人たちは、ダメ出しされやすいし、正義感に基づいた批判の嵐にさらされたりします。
となると、”きちんとしていない”側の人たちは「自分はダメなのだ」と受け入れるのは苦痛なので、「自分は病気なのだ(だから仕方ない)」と逃げたくもなるでしょう。

これは、ここで逃げるのがいけない、と言っているのではありません。逃げていいのです。

ただ、根源的な問題は、”そもそもダメじゃないのにダメと思い込む社会”の側にあるのではないでしょうか?
過剰に”きちんとしていること”を求める社会、そこから少しでも外れた人をバッシングする社会、このような社会がつづく限り、”発達障害”の診断を求める人は増え続けるように思います。
日本人のほとんどは自閉的な特性をもっているのですから…

(⑥につづく)

発達障害のこと④

3;扱いの問題

扱いの問題は、小児期(乳児~小学生)と、思春期以降では少し違います。
ざっくり言うと、小児期の問題は、発達障害は治らないと広く信じられていること、思春期以降の問題は、本来発達障害と直接関係のない不適応状態がすべて発達障害のためとみなされていること、です。


小児の場合は、ほとんどのケースは”発達の遅れ”として事例化するので、思春期や成人での発達障害の扱いよりも実はシンプルです。

ことばの遅れや社会性の遅れがある、として、発達センターなどに紹介された子は、見立て → 療育プログラム → 支援教育、という流れにのっていきます。療育プログラムを行う中で、その子が就学後どのくらいの支援が必要になるか見極め、教育へ繋いでいくことになります。
診断の有無は、療育、教育とも必須ではないけど、センターの運営上必要になることは、先に記したとおりです。

あまり現場で共有されていないのが残念ですが、小児期の”遅れ”は改善していくことが多いものです。そもそも、子供は興味のあることを優先して学んでいくので、それぞれの能力の発達スピードには個人差があるのがあたりまえです。

こどもは、一生のうちで一番ダイナミックに脳機能が変化する時期を過ごしています。周囲が何もしなくても、勝手に興味のあることを見つけて、その能力を伸ばします。
なので、発達にでこぼこがあると言われるような子の場合、その伸ばしたい能力を伸ばすためにどうすればその子の興味を引けるかを考え、それを保護者の方にフィードバックしていくのが基本的な療育の仕事になると思います。

しかし前項でもふれたとおり、”発達障害は生まれつき(先天性)で治らない”とひろく信じられているため、療育現場の多くが、こどもの能力を伸ばす方向より、伸びない能力のもとでどうやって社会を生き抜くかを学ばせる場になっているのが現状です。

確かに、どれだけ周囲が働きかけてもあまり変化しない子は一部います。

でも、ほとんどの子は、うまく働きかければ大きく変化します。もともと変化の大きい時期を過ごしているので、その方向づけをちょっと支援するだけです。センスのいい保育士さんなどは、自然とできているのですが、発達センターなどの専門家集団はそうはいかないようです。

専門家という集団はプライドがあるので変化に抵抗することが多いのでしょうし、発達障害の専門家の中には自身もそうだという方が珍しくはないので、小さいうちなら改善するという事実は自己否定のように受け取る方もいるのかもしれません。
いずれにしろ、発達障害でも社会適応はできる(それは確かにそうなのですが)が、目標の療育運営を見ていると、もどかしい気持ちになります。

余談ですが、私は3年前から勤務する発達センターで、療育方法の話以外にも、こどもの栄養状態の話もしていますが、そのことで今までに3回、院長から呼び出され小言を受けています。
「先生の話のせいで、患者さんが私たちの話を聞いてくれません、とスタッフから苦情が来ています」と。
患者さんの求める情報を提供できていないことの反省はないのか…とあきれるのですが、その後もあつかましく続けていたところ、患者さんの中には、藤川先生の著書を読んで、栄養改善に自ら取り組む人も出てきたり、プロテインや鉄剤を飲む職員も出てきたり(と、私にこっそりと報告してくれたり)、最近では潮目の変化を感じます。
ただしそれは診察室の中だけの話です。療育の現場は医師は入り込むことはできません(施設によりますが)。


なので、現場を改革するのではなく、直接、こどもを伸ばしたい人に届くように、このブログで情報を発信していきたいと思っています。

ちなみに、私が”自閉系”の子の伸ばし方を学んだのは、もう10年以上前に読んだアメリカ人医師の書籍(大学病院の研究事例に近いもの)でしたが、最近読んだ別の分野のアメリカ人医師の本では「自閉症はいまや治る疾患なので、いまさら論じる必要はない」というような記載を見つけました。
実際、アメリカでこどもの療育をうけ帰国した方から、「日本の発達センターに行ってあまりの療育の古さに驚いた」という話も聞きました。
アメリカ式がすべてに正しいとは思いませんが、こどもの療育の領域では日米に大きく差が開いているのは、確かかもしれません。

思春期以降の扱いの問題は次に見ていきます。

(つづく)

発達障害のこと③

診断の問題のつづき。

前項で診断名がたくさんあることの問題を見てきましたが、他にも問題と考えられるものがあります。

それは、ICDにしろDSMにしろ、その疾患と分類するための基準が記されているのですが、身体疾患での所見と違って、精神疾患の場合は医師でなくても簡単に(…本当はそれほど簡単ではないことも多いのですが)所見がとれることです。
なので、ICDやDSMの項目を並べて、セルフチェックリストのように載せているサイトがあったり、そのチェックリストを機械的に運用して診断している医師(発達障害を専門にしない医師)がいたりします。

特に自閉系の項目を見てみるとわかりますが、すべての項目にチェックがつかない日本人はほとんどいないと思います。
とすると、日本人はすべからく自閉症である、のでしょうか?
それは疾患と言えるのでしょうか?

これらの分類基準を機械的に運用してしまうと、
「自分、対人関係がつらいです」「コミュニケーションの問題を感じます」とか言って受診した人は全員、自閉症と診断されるという、「過剰診断」が起こりえるということになります。

これは、小児の現場でも多少はありますし、成人精神医療の現場ではもっとたくさんあるでしょうし、最近では企業労務の現場でも聞く話題です。

自閉的と考えられる所見は、生活環境や本人の心理状態の影響によって、よくも悪くも変化します。
小児の場合は、自閉的な症状の多くは改善が見込めます。成人の場合は、社会性を学ぶ臨界期と想定される時期を過ぎていることが多いので、小児とは経過は違いますが、それでも症状は変化します。


なので、一時の状態としてつける診断であれば、それほど問題ではないのかもしれませんが、現実に、一般では「発達障害は生まれつきの疾病で治ることはない」という言説が信じられています。

「一生治らない」と信じられている中での過剰診断は、その人の一生を規定してしまうリスクをはらんでいます。
診断する側の医師には、そのあたりにも考慮したまっとうな説明を期待したいと思います。

(④につづく)

発達障害のこと②

2:診断の問題

この問題では、まず、診断名が多すぎることを上げて異論のある人はいないのではないかと思います。

行政が扱う発達障害カテゴリーの中には、知的障害系、自閉症系、多動症系の3つと、場合によっては、てんかんなどの神経疾患を含むこともあります。
知的障害とそれに類縁する支援を必要としている状態は全部、ということなのでしょう。前項の法整備の点で仕方のない対応だと思います。

かたや、医療では、知的障害と神経疾患は別と考え、発達障害カテゴリーの中には自閉症系と多動症系のみを含むことが一般的です。

ここに、行政と医療の齟齬が存在します。

その他の診断の問題として、”疾病分類問題”があります。
発達障害カテゴリーの診断に使う診断名は、主に2つの疾病分類が用いられています。
WHOによる「国際疾病分類;ICD」とアメリカ精神医学会による「精神障害の診断と統計マニュアル;DSM」のふたつです。
身体疾患の分類の際にはICDしか使われていないのですが、精神疾患ではICDとDSMは両方使われます。

具体的にどのような診断名があるのか、見ていきましょう。
(それぞれの診断分類は書籍として市販されてますので、興味のある方は自分で調べてみてください)


ICD-10では、自閉系は”心理的発達の障害”というカテゴリーになり、その下位に”広汎性発達障害”があり、さらにその下位に”自閉症”、”アスペルガー障害”など細かく分類されています。多動系は”小児<児童>期及び青年期に通常発症する行動及び情緒の障害”という分類で、その下位に”多動性障害”という診断となります。

DSMは数年前改訂され、第5版:DSM-5が最新ですが、数年前まで使われていた第4版;DSM-4での診断名と大きく変わったため、現場では併用されていることもあります。
DSM-4では、”通常、幼児期、小児期または青年期に初めて診断される障害”というカテゴリーの下位で、自閉系は”広汎性発達障害”、そしてその下位に”自閉性障害””アスペルガー障害”などが含まれ、多動系は同じ ”通常、幼児期、小児期または青年期に初めて診断される障害” カテゴリー内の”注意欠陥および破壊的行動障害”の下位で、”注意欠如・多動障害(ADHD)”となります。
それが、DSM-5に変わって、自閉系はそれぞれクリアに分類できるものではないとの考えから”自閉スペクトラム症(ASD)”とひとつになり、多動系は注意欠如・多動障害(ADHD)と変わりませんが成人まで診断範囲を広げるように変更になっています。

ICDもDSMも、その他に、知的障害、構音障害、学習障害、吃音、緘黙、非行なども診断として含んでいます。「通常小児期および青年期」に起こりうる問題は、発達障害だけではないし、それぞれが関連していることも多いのでそれらを網羅してあるのですが、何とも混沌としています。

医療サイドでカルテに記載される診断名では、どちらかといえばDSMの方がシンプルなのでよく使われるようですが、行政に提出する書類では、あるものはICD病名を求められ、あるものではDSMの病名を求められる、などがあり、その都度その書類に合わせた診断名が使われています。また、現場によって好まれる診断名が違うこともあり、提出先に合わせて書類の診断名を選ぶこともあったりします。
DSM-4にもとづいていた診断名がDSM-5のものに変わることもありえます。

なので、病院によって、医師によって、書類によって診断名が違うということに、一喜一憂する必要はないと思います。

また、これは身体疾患でも同じですが、診断名の中には、原因がはっきりわかっていて病因を示してついている診断名と、原因はわからない症候群的についている診断名があります。
発達障害関連の診断名は、すべて”症候群”に属します。
何を意味するかというと、原因は不明だし、同じような病状の人がいても、その過去も今後の経過も社会的な困り感も、皆それぞれ違うということです。同じ診断名だからといって同じではないのです。

なので、診断名には過度にこだわらないことをお薦めします。
診断名よりも、どんな状態でどんな困り感があるのか、の方が大事だと思います。

ただし、自閉系と多動系は分けて考えた方がわかりやすい場面が多いので、当ブログでは、”自閉系””多動系”と記載します。

(③につづく)

発達障害のこと

プロフィールにものせていますが、私の医師としての専門は、小児(児童)精神科になります。
小児科医として、また精神科医として勤務した経験があり、現在は、療育センターの児童精神科と産婦人科医院の小児科にて働いています。
主に乳幼児の発達と成長の支援を行っています。

療育センターでの患者さんは、やはり「発達障害かもしれない」が主訴の方が一番多く、初診で2~4歳くらいが目立ちます。

いまや発達障害は医療用語ではなく一般用語になり、小児のみならず成人にまで適用され、知らない人はいない言葉になっています。
そのためか、概念は多岐にわたり、結局よくわからないもの、とも化しています。

一現場の専門家として、こんがらがった概念を少し整理してみたいと思います。

まず、いくつか問題点として思いつくことを上げてみますと、

1;用語の問題
2;診断の問題
3;扱いの問題

などがありそうです。
それぞれ関連はしていますが、ひとつづつ見ていきたいと思います。

1;用語の問題について

”発達障害”という用語は、じつは厳密には診断名ではありません。
便利な言葉なので、医療者の間でもカテゴリーとしては使われていますが、診断名にはなりません。
では何かというと、行政サイドで使われる言葉ということになります。

私の勤務する療育センター(発達センター)は、地方自治体からの委託業務として運営されていますし、過去勤務したことのある2つの発達センターは地方自治体の直営機関でした。
全国の他の多くの自治体も、ほぼ同じだと思います。

”発達センター”や”療育センター”と名付けられてるこのような施設には、発達に気がかりな点のある子は誰でも通えるのが前提なのですが、行政が運営する(税金が投入されている)以上、その子にそれが必要だという根拠を求められます。

私が子供だった昭和の頃は、このような施設は”知的障害児と身体障害児”のための施設として機能していました。
身体障害と同じように知的障害についても、昭和の時代より福祉政策にのっとり法整備がされています(児童福祉法)。
知的障害の診断はIQの数字によって機械的になされるため、厳密には医師による診断ではありませんが、知的障害と診断された子は、発達センター的な施設へ通い、養護学校(現特別支援学校)へ通学し、療育手帳(愛の手帳とよぶ自治体もあります)を取得し、成人後は障害年金の受給をうける、というような法整備です。

ところが現在では、発達センターは発達障害の子が行くところ、と認識されている地域も多そうです。
いつの頃からか、「知的障害とは言えないけど発達が遅れていると思われる子」が増えてきて、発達センターへ通うようになったと考えられます。

かくして、公費でまかなわれる発達センターには、知的障害、身体障害、発達障害という分類が使われるようになったのかな…と想像します。
もしかすると、それまでは”○○園”といった福祉施設らしい名前だった施設が、”○○市発達センター”などの名前に変わったのも、その影響かもしれません。
また、1994年出版のDSM-4という精神疾患の分類基準で、自閉症系の疾患を”広汎性発達障害”と呼ぶようになったことも関連しているかもしれません。

そして、発達障害者支援法(2005年)の制定によって、正式な行政用語になって今日に至っています。


今では発達センターによっては、発達障害の下位カテゴリー(次項に詳しく書きます)まで医師が診断をつけないと通えないところもあったり、医師か心理士がざっくり「発達障害ですね~」と言えば通えるところもあったりと、その運用には地域差があります。
ただし、通所するためには診断は必須ではないのですが、各種書類を記載する際には診断名が求められますし、医療機関の形をとっている施設では保険病名としての診断名が必要になります。
地域によって、診断事情が違うのは、このような背景もあるのです。

*おまけ*
行政用語の発達障害に関連して”軽度発達障害”という用語があります(ありました)。
これは、ある医師が「発達障害ではあるものの知的障害ではないもの」と提唱していたものです。それだけならまあ…なんですが、その医師のメディア露出が多かったためか、文部科学省が学校関連の通達の中でこの用語を採用してしまいました。
しかし専門家の間では「障害が”軽い”と誤解をまねく」と反対が多く、現場でも「こんなに苦労しているのに”軽い”とは納得できない」など混乱が大きく、結局、文部科学省が「軽度発達障害という用語は使いません」と通達をだし、問題が収束した経緯があります。
一部サイトなどでは、今でもこの用語を使っているのを見かけますが、現状アクティブな用語ではないことをご承知いただければと思います。

(②につづく)

ボディートークの実際

私が医師としてボディートークをどのような人に薦めたいかについて書いてみます。

全員!  と言いたいところですが、多少の制約はあります。

どんな人でも必ず変化するので「効かない」ということはないのですが、問題は「その人のエゴでのぞむ変化」が必ずしもおきるわけではない、というところにあります。

「こうなりたい」「これがなおしたい」というこだわりが強すぎる人には、満足感が得られない可能性があります。
そのこだわりの根っ子はどこにあるの?という方向に変化の矛先が向かうことも考えられますが…

また、こだわりでいうと、「目に見えないものは絶対に信じない」「科学で証明されているものしか信じない」という強いこだわりのある人では、効果がでにくい可能性があります。
この施術で変化したくないという強い意思は、強い無意識となって身体や現実に影響を及ぼすことが考えられるからです。

ある程度の素直さをもって、自分の(身体の)本能にもとづく変化を受け入れてみたい、と思える人には向いていると思います。

通院中の治療と併用できるかどうか、については、むしろ併用をお薦めします。

先にも書きましたが、現代医療はスピード感に優れています。
鈍感力に特化した現代人では、 「調子が悪い」と感じたときすでに身体は限界のギリギリになっていることは、よくあります。すばやい介入が必要な時にはためらわないことです。

とはいえ急性期でも、病院での治療と並行してボディートークの施術を行うことができます。最低限、ベッドサイドで身体に触れたりタップしたりが可能であれば、十分です。
しかし、家族以外面会できない状況では、難しいかもしれません。

そして慢性期は積極的におすすめします。
身体がより良い方向に適応変化するので、治療中の疾患が楽になっていくことはよくあります。 人によってさまざまですが、活力がわいたり、免疫力、消化力があがったり、心理状態が楽になったりと感じると思います。


内服中の投薬量が少なくて済むようになることもありえます。
ただしこれはどの場合でも言えますが、薬の減らし方には注意が必要です。


薬物療法ではかなりきつい薬が使われていることがあります。薬を勝手にやめると、身体が離脱に適応しきれず重篤な状態に陥ることがあります。減らすのは増やすよりも難しいことが多いのです。
勝手にやめてはいけません、主治医に「症状がよくなった」と伝えて減薬を申し出てください。

ですが、頭の固い医師にあたると、この疾患は治るはずがない、などと言って減薬に応じないことがあります。きちんと患者さんの意見を聞き、きちんと状態を評価でき、判断できる柔軟さがある医師かどうか見きわめて、だめなら転医することをお薦めします。

気になる副作用は…ない、と言いたいのですが、生じる変化が”症状”をもたらすことがありえます。

具体的には、眠い、だるいなどの休息欲求が生じたり、いらなくなった感情を排泄するのに文字通りの排泄が必要となったりを、よく経験します。

とはいえ、手やお腹に少し触れて、タップをするだけです。身体を傷つけるようなリスクはありません。従来の治療と比べても、代替療法の多くと比べても、安全性は高いと思います。

ボディートークって

「意識にもとづいて心身のバランスをただす」

といえるのですが、何のことかわかりにくいですね。

前項の意識の考え方にならうと、崩れたバランスとは、長年生きてきて心身に染み付いた考え方や生理反応のくせと言えます。

それらのくせを、生物が本来持っている「最適」に近づくように変化することをめざします。

誰がめざすのか……

本人が、と言いたいところですが、瞑想のように本人の努力を必要としないのがボディートークの特徴で、施術者と本人の無意識が共同して行います。

無意識なので本人の努力は必要ありません。

人類が地球上に誕生して200万年ともいう年月、楽な環境はあまりなかったと思いますが、私たちの祖先はうまく生きのびてきました。

私たちの身体には環境に適応する「本能」が備わっているともいえると思います。

ただし適応は、長い目で見て私たちを生きのびさせますが、短期的には不都合をきたしたり、生きるために何かを捨てさせたりします。

また、エピジェネティクスの研究で明らかになってきたように、その適応は下の世代にひきつがれもします。先祖の適応のおかげで私たちが不都合をきたしている、肥満はその代表的な例として知られていますね。

ボディートークではそのような不都合を本能にしたがって正していくことを目標にします。現代の生活に適応しながら、今となっては必要のなくなったくせはとりのぞき、強すぎる適応反応はやわらげたり、現状での最適に近づくように変化を促します。

どのように変化させたいかというエゴイズムが入り込まないのは引き寄せ系と違うところで、エゴイズムを排するという点で瞑想に近いと思います。

具体的にどんなことをするのかは、ボディートーク公式ページをご覧になっていただくといいのですが、非常にシンプルです。施術者の側は、意識を集中して持っている知識を総動員して微細な生理反応を読みとるということをしていますが、受ける方はじっとして(多くは横になってもらいます)、頭や身体に少しタップを受けるだけです。

変化の生じ方は、人によって感じている不都合も、生活の環境も適応状況も違うので、まったく様々です。

1回で変化を感じる人もいますが、数回やってやっとすこし変化を感じる人もいます。

アスリートや芸術家など自分の身体の感覚に敏感に生きている人は変化を感じやすいようですが、感情や生理反応を抑制して鈍感力を最大限発揮して生きる環境にいる人は変化を感じにくいようです。ただし本人が変化を感じなくても、周りの人から変わったといわれるケースは多いです。

私自身の体験でいうと、7.8年前になりますが、はじめての施術を受けて立ち上がった時、股関節がはまっている感覚があってすごく驚いたのを覚えています。

股関節は普通はまっているものですが、私の場合は左の股関節が固く開きにくく、脚長も左が少し長く左足の片足立ちが安定しない問題があったので、自分では左股関節形成不全(股関節亜脱臼)が乳児期に見逃されたケースかと思っていました。が、整形外科の先生に言うと笑われそうだったので(股関節痛や腰痛は軽度で歩けていたので)黙っているという状態でした。

その股関節がはまっている、骨盤の安定具合が施術前と後で全然違うので本当に驚きました。

その時の感覚で、施術前のはまらなさ具合を10とすると、1回の施術で7くらい治った感じです。ただ残りの3はなかなかしぶとく、その後数年(施術も何度も受け、自分も施術者になる講習を受け練習もたくさんしました)を要し、今でも9.5~9.8くらいで、違和感は残っています。

これは、自分では変化を感じても周りの人からはわからないかもしれませんが、股関節と骨盤が安定したことで、思わぬ収穫もありました。

ひとつはスキーがうまくなったこと。もともと左外足のターンが腰が外れてしまいうまくいかなかったのが、左右差がなくなり、検定員の資格を持つ友人たちからうまくなったと褒められました。当時は病院の常勤医だったので、ほとんど練習をせず数年ぶりだったにもかかわらずです。

ふたつめは、最近気づいたのですが、ひざ下O脚がまっすぐになってきたことです。脚長差がなくなり骨盤のローテーションがなくなったので(以前はまっすぐ立っていても右骨盤が前に出る形で20度くらいローテーションしていました)、ひざ下への力のかかり方が変わったのかもしれません。

この他にも、身体が冷えにくくなった(食事の変更によりより実感しています)、嫌な環境から遠ざかれるようになった(NOが言える)、結婚できた(笑)などがあり、年の功の部分もあるかもですが、変化したことはたしかです。

いずれ書くかもしれませんが、過剰適応で自己評価も低かった私は、今のようにフリーランスで好き勝手するなど考えられませんでした。医師のお行儀のいい世界にいた方がはるかに「お利口」と評価してもらえるのですから。

これが私ののぞんだ変化かはわかりませんが、結果として以前より満足のいく自分になっています。

ボディートークに興味がわきましたか?